借り物の言葉を、
自分の言葉に変える
自分のことは、最初は誰かの言葉でしか言えない
自分がどういう人間かを説明しようとすると、たいてい詰まる。感じていることはあるのに、それを指す言葉が手元にない。
だから最初は、外から借りることになる。診断が出したタイプの説明。本で読んだ一文。誰かに言われた「あなたってこういうところあるよね」。どれも自分で作った言葉ではない。
借りること自体は、悪くない。手元に何もないところから始めるより、借り物があったほうが早い。置いたままにしておくことのほうが問題になる。
借り物は、当ててみるためにある
借りた言葉は、そのまま使うためのものではない。自分の感覚に当ててみて、合うか合わないかを見るためのものになる。
合わなければ、捨てていい。合わないと分かること自体が、一つ進んでいる。自分はそうではない、と言えるようになったので。
診断が結果を出しても、それだけでタイプが決まらないのは、そのため。診断が渡すのは候補であって、答えではない。決めるのは、当ててみた本人になる。詳しくは タイプを自分で決める に書いた。
しっくりきた瞬間に、起きていること
当て続けていると、たまに当たる。前から持っていた感覚に、言葉がぴたりと重なる瞬間がある。
そのとき起きているのは、新しく何かを知ることとは少し違う。感覚のほうが先にあって、言葉が後から来ている。ずっとあったのに言えなかったものが、言えるようになる。
言えるようになると、扱えるようになる。名前が付いたものは、次に出てきたときに気づける。気づければ、そのまま流されるのか、いったん置くのかを選べる。視界が一段変わるのは、この順番で起きている。
向き合うのは、基本しんどい
自分に向き合う作業は、楽しいものとは限らない。見たくないものが出てくるし、認めたくないところに触ることになる。
複眼道場がやろうとしているのは、それを楽しくすることではなく、少しでもましにすることだと考えている。しっくりくる言葉が一つ見つかった日は、少し軽くなる。その程度の手応えを、繰り返し積んでいく。
しっくりきた言葉も、あとで合わなくなる
一度当たった言葉が、しばらくすると合わなくなることがある。
間違えていたから合わなくなるのではない。見えている範囲が広がると、前の言葉では足りなくなる。合わなくなったこと自体が、進んだ印になる。
だから書き換えは、直しではない。前の言葉を消す必要もない。昔はこう言っていた、が残っていると、自分が動いたことのほうが見える。
考えなくてよくなるのは、目的ではなく結果
繰り返していると、いちいち考え込まなくても済む場面が増えてくる。
ただし、考えなくてよくなることを目指しているわけではない。考えないでいるのは無理で、実際に減るのは負担感のほうになる。同じ場面に出会っても、前ほど時間を取られなくなる。それは結果であって、そこに向かって進むものではない。
終わりがない理由
自分をある程度読めるようになっても、そこで終わりにはならない。相手を読むほうが、はるかに大変だから。
自分については、少なくとも内側から見られる。相手については、行動しか見えない。同じ行動の下に別の動機があることもあるし、違う行動の下に同じ動機があることもある。
そして相手が読めるようになると、今度はその人と自分が置かれている場のほうが気になってくる。対象が難しくなり続けるので、終わりは来ない。
きっかけは、多いほうがいい
当たる瞬間は、狙って作れない。だから当ててみる回数を増やすほうに寄せることになる。
きっかけは一つではない。診断の結果が効くこともあれば、記事の一文が効くこともある。日記を書いている途中で自分から出てくることもあるし、人と話していて言われた一言が刺さることもある。
どれが効くかは、事前には分からない。だから複眼道場には入口が複数ある。診断も、記事も、書く場所も、対話も、当たる機会を増やすためにあると考えている。
やっていることは、最初から最後まで同じ
借り物を当ててみる。合うものを、自分の言い方に変える。合わなくなったら、また変える。
一度で終わらないし、上手くなったという実感も持ちにくい。ただ、しっくりきた言葉が一つ増えるたびに、自分について言えることが一つ増えている。積み上がるのは、そこになる。