囚われも大事
── 超えて含むの「含む」に必要なもの
一般的なエニアグラム文脈では、囚われは「克服すべきもの」「直すべきパターン」と扱われやすい。複眼道場の立場はそこから一歩動かしている。
囚われは直すものではない。通過して、握り直すもの。そして握り直すためには、まずちゃんと囚われた経験が要る。卒業ではなく握り直し。克服ではなく通過。この記事はその立場を、インテグラルとの接続で論理的に展開する。
囚われ = 悪、という通俗理解
診断を受けて「自分のタイプはこれか」と知った瞬間、多くの人の頭に浮かぶのは「直したい」「克服したい」という動きだ。タイプ1なら完璧主義を直したい。タイプ8なら威圧的になる癖をなんとかしたい。タイプ4なら気分の波を平らにしたい。
これはとても自然な反応。エニアグラムの古典的な文脈でも、囚われ(passion / fixation)は「罪」「病理」として扱われた時代がある。「悟りに向けて克服すべきもの」という枠組み。
ただ、この枠組みには副作用がある。囚われを「悪」にすると、囚われている自分を丸ごと否定することになる。そして、囚われを否定する動きは、たいてい囚われを強化する方向にしか進まない。タイプ1が完璧主義を「直そう」とするほど、完璧主義は強化される(「もっと直さなきゃ」という新しい完璧主義が立ち上がる)。タイプ8が威圧を「やめよう」とするほど、やめようとする自分を統制する力がまた働く。
複眼道場が学ぶ目的で「直す/克服ではなく、使うか使わないかを選べる」と書いたのは、この罠を避けるため。でも今回はもう一歩踏み込む。選べる地点に立つには、何を通過する必要があるか。
囚われていないときは、エネルギーが動いていない
そもそも囚われとは何か。囚われの形成で見たとおり、囚われは「そのタイプが世界を生き延びるために身につけた、固有のエネルギーの回し方」。鎧であり、同時にエネルギーの経路。
ということは、こう言える。
囚われが動いていないとき、そのタイプ固有のエネルギーも動いていない。
タイプ8の人が若い頃に「自分の力でねじ伏せて周囲を傷つけた」経験を持っているなら、それは力のエネルギーが生きている証拠。タイプ5の人が長らく人との接触を避けて独学に沈んできた時期があるなら、それは観察力のエネルギーが動いている証拠。タイプ2の人が世話焼きで疲弊して何度も恨みに変わった経験を持つなら、それはケアのエネルギーが生きている証拠。
これらはすべて「囚われている」状態。でも、囚われているからこそ、そのタイプの固有の力が現実世界で動いている。鎧を強みと呼ぶときで書いたとおり、鎧と強みは表裏一体。鎧の方向がそのタイプの強みの方向でもある。
「健全に見える」が「薄いだけ」のケース
ここで注意したいのは、囚われが発動していない状態には二種類あること。
- 通過して握り直した健全: 囚われを身体で知ったうえで、使うかどうかを選べる状態。エネルギーはある、でも自動操縦ではない
- まだ通過していない健全: 環境が穏やかで囚われが発動していないだけ、あるいは年齢や疲労でエネルギーが枯れているだけ。外から見ると健全だが、エネルギーそのものが薄い
この二つは、平時には外から見分けがつきにくい。違いが出るのは、揺さぶられたとき。通過した健全は、ストレス下でも崩れない。通過していない健全は、環境が変わった瞬間に崩れるか、もしくは「静かすぎる」形で現実に関与しなくなる。
「超えて含む」の「含む」には前提条件がある
インテグラル理論の超えて含むは、前の段階を身体で通過したことを前提にしている。飛ばして先に進もうとしても、含まれていない段階はストレス下でアクセスできなくなる。足場が抜ける。
ウィルバー自身がこの点を強く言っている。規律(アンバー)を身体化していないのに合理性(オレンジ)に行った人は、追い詰められると崩れる。共感(グリーン)を通らずに統合(ティール)を目指すと、他者を道具として扱う冷たさになる。「卒業したつもりの段階」は、避けていただけのことが多い。
この構造は、エニアグラムの囚われにも同じ形で当てはまる。
囚われに入ったことがない人は、囚われを超えようがない。鎧を着たことがない人は、脱ぎようがない。
「囚われていないから自由」ではない。「囚われを体験していないから、自由と不自由の違いがわからない」に近い。自由は、不自由の経由地から見えてくる景色。経由していない人には、そこに「自由」があることさえ見えていない。
自己価値の範疇で揺さぶられる体験
もう少し具体的に言う。自己価値の記事で触れたとおり、各タイプには「自分はこうでありたい」という核がある。そして、その核の反対側が地雷になる。
ここで複眼道場の仮説を置く。
自己価値の範疇で揺さぶられた体験を通過していない人は、健全な状態に居続けにくい。
揺さぶられるとは、そのタイプにとって一番嫌な出来事が実際に起きること。タイプ1なら「自分の正しさが実際には間違っていた」と突きつけられる体験。タイプ8なら「自分ではどうにもできない構造に支配された」体験。タイプ2なら「尽くした相手から拒絶された」体験。
これらは、避けたい。だから多くの人は、こういう体験が来そうな状況を無意識に避けるように動く。でも避け続けると、その体験を通過した上でしか見えない景色も、同時に見えないままになる。
タイプ8が「守ろうとした力が結果として守りたいものを壊した」現場を身体で知っているとき、力の使い方に選択肢が生まれる。タイプ5が「知識を武器にして人を切った」現場を知っているとき、知識を分かち合う方向にも使えるようになる。現場を知らずに「力を保護に使いましょう」「知識を分かち合いましょう」と頭で決めても、それは成立しない。揺さぶりを通過した身体がないと、同じ言葉でも中身が入らない。
若いうちに、ちゃんと囚われる
ここから、人を傷つけない範囲で、しかし尖らせて書く。
20代、30代は、自分のタイプのエネルギーが一番強く動く時期。このときに囚われを全開で動かして、周囲を巻き込んだり、自分が消耗したり、関係を壊したりする体験は、後から振り返ると財産になる。そこでしか身体に入らないデータがある。
タイプ8は若い頃に力をむき出しで使って、周囲を黙らせ、そして「これは自分が守りたかったものではない」とどこかで気づく。タイプ3は成果を追いかけ尽くして、成果を手にした瞬間に残る空虚を味わう。タイプ7は次々に面白いものを追いかけて、ある日、追いかけるものがなくなった瞬間に立ち尽くす。タイプ9は波風を立てないように合わせ続けて、自分の意見がどこにあるのかわからなくなる。
これらの体験は、一般的には「失敗」と呼ばれがち。でも複眼道場の立場では、これは失敗ではなく、必要な通過。囚われを徹底的に体験することが、後の「超えて含む」に使える素材になる。
逆に、若いうちに囚われを徹底せず、「なんとなく中庸」で通過してきた人は、中年以降に困ることがある。囚われの反対側(統合方向)に行こうとしても、反対側に行くための出発点である「囚われの中」を身体で知らないから、動けない。
「もう囚われていません」の危うさ
エニアグラムを学んだ人の中に、「自分はもうこのタイプを卒業した」「囚われから自由になった」と語る人がいる。本当にそうならいい。ただ、複眼道場の観察として、卒業したと感じている体験の中には、別の中身も混じっている。
囚われを徹底的に動かしたことがないから、自分の自動操縦が見えない。自分のタイプの地雷を踏まれる場面を避けてきたから、地雷があることも認識していない。これは「卒業」ではなく「未経験」。
見分け方は、超えて含むの記事で書いた通り、ストレス下で何が起きるか。
- 本当に通過して握り直した人は、追い詰められたとき、自分の囚われが薄く立ち上がるのを見ることができる。見えているから、そこから次の一手を選べる
- 未経験のまま静かな状態にいた人は、追い詰められたときに崩れ方が深い。囚われそのものだけでなく、矢印先(ストレス方向のタイプ)の不健全面までまとめて出て、戻るのに時間がかかる
これは「あなたは偽物です」という断罪ではない。ただ、静かさには二種類あるという、見分けの視点の話。見分ける視点があれば、自分が今どちらにいるかを問い直せる。問い直せれば、通過するべきものがまだ残っていると気づける。
ついでに書いておくと、若い時期に穏やかに過ごせた人は、環境が良かったのかもしれない。家族に恵まれ、傷つけられる機会が少なかった。それ自体は幸運なことで、咎められるべき話ではない。ただ、幸運でエネルギーが発動していない状態と、通過して握り直した状態は、別物。幸運な人は、どこかの時点で意識的に囚われと向き合う機会を作る必要が出てくる。自然には降りてこない。
複眼道場の立場
ここまでを総合すると、複眼道場の立場はこう整理できる。
直すな、克服するな、超えるな。まず、ちゃんと囚われろ。
自分のタイプのエネルギーを、若いうちに全開で動かす。そこで周囲を巻き込んだり、自分がぼろぼろになったりする経験を含めて、囚われの現場を身体で知る。失敗として処理せず、後で使える素材として記憶に残す。
そのうえで、自分の囚われが作動する現場を何度も目撃しながら、「使うか、使わないか」を選べる地点に、少しずつ立っていく。これが複眼道場の言う握り直し。卒業ではない。
この立場は、エニアグラムの健全度・矢印・発達段階の関係を整理した複眼道場の成長モデルとセットで読むと、輪郭がはっきりする。統合方向(成長の矢印)は「次に客体化すべきフレーム」だが、客体化するにはまず主体としてそのフレームの中に入っている必要がある。囚われの中に入っていない人は、客体化するフレーム自体を持っていない。
読み替えの注意点
この記事を「だから囚われ続けていていい」「直す必要はない」と読むと、ズレる。書いているのはそこではない。
- 囚われを放置していいわけではない。放置されたままの囚われは、健全度を下げ続ける方向に働く
- 周囲を壊し続けていいわけでもない。通過には終わりの時期がある。ずっと人を傷つけ続けているなら、それは「通過」ではなく「居座り」
- 若い時期に囚われを通過できなかった人が、もう手遅れという話でもない。中年以降でも、意識的に囚われと向き合う機会を作れば、遅れて通過できる。ただし自然には降りてこないから、意図を持って作る必要がある
書きたかったのは、囚われに入ることそのものを最初から回避してはいけないということ。回避してきれいに保った健全は、追い詰められたときに持たない。通過したあとの健全と、通過していない健全は、別物。
まとめ
- 囚われは悪ではない。そのタイプの固有エネルギーの現れ方
- 囚われが動いていない状態には二種類ある。通過して握り直した健全と、まだ触れていないだけの薄い健全
- 「超えて含む」の"含む"には前提条件がある。前の段階・前の状態を身体で通過していること
- 自己価値の核で揺さぶられた体験が、後の握り直しの素材になる
- 若いうちに、自分のタイプのエネルギーをちゃんと動かす。失敗として処理せず、通過として記憶する
- 「卒業した」に見える状態が、未経験の場合もある。見分けはストレス下での崩れ方
- 複眼道場の立場: 直すな、克服するな、超えるな。まず、ちゃんと囚われろ。そのうえで握り直せ