「ありたい自分」には、二つの方向がある
「ありたい」という言葉の二方向性
「ありたい自分」と言ったとき、人が指している方向は二つに分かれます。
上方向の「ありたい」は、今より高く、優れた、完成された自分です。「もっと成果を出せる自分」「もっと役に立てる自分」「もっと完璧な自分」「もっと自由な自分」。背伸びの方向。届いていない自分から、届いている自分へ向かう感覚。
奥方向の「ありたい」は、押し殺してきた、本来そうだったはずの自分です。「もっと素直になっていい自分」「もっと甘えていい自分」「もっと弱くていい自分」「もっと怒っていい自分」「もっと休んでいい自分」。脱ぎ捨ての方向。届いていないから努力するのではなく、あったはずなのに置いてきたから取り戻す感覚。
同じ「ありたい」という日本語を使っていても、向かう方向が真逆です。前者は背伸び、後者は脱ぎ捨て。日常の言語ではこの二つが区別されないため、自分でもどっちを語っているか自覚しないまま「ありたい自分」を語ってしまうことが多い。
「実際の自分」もまた一枚岩ではない
「ありたい」と並んで、もう一つ整理が要るのが「実際の自分」という言葉です。「実際の自分」も、複数の層を含んでいる言葉。
- 演じている自分:周りに見せているペルソナ。仕事の自分、親としての自分、リーダーとしての自分
- 苦労して身につけた自分:努力で実装した役割やスキル。後天的に獲得した「できる自分」
- ほっといたら戻る自分:一人の時、疲れた時、油断した時に出るクセや反射
- 動機・恐れ・欲求:その人の動きを駆動している源。何が怖いか、何を求めているか
「実際こうしている自分」と「これが本当の私だ」は、本来別の話です。前者は事実レベル、後者はアイデンティティレベル。ところが日常会話では、この二つはほぼ地続きに使われる。「実際の私はこうなんです」と語った瞬間、その言葉は事実を述べているように見えて、アイデンティティを宣言している。
苦労してきた人ほど、戦略を「実際の自分」と感じる
人は生きる中で、周りに合わせるための適応戦略を身につけていきます。タイプによって戦略の方向は違うけれど、誰もが何らかの形で、評価されるため・愛されるため・安全でいるため・認められるため・揺るがないため・痛みを避けるため、に動いてきた。
苦労してきた人ほど、その戦略に多くの時間と労力を投資してきています。長く・深く・繰り返し、その戦略を実装してきた。そして、投資した分量が大きいほど、その戦略が「自分そのもの」に感じられるようになる。サンクコストと同じ構造です。投資を回収するためにも、その戦略を「これが本当の私だ」と感じるしかなくなる。
すると、その人が「ありたい自分」を語るとき、上方向(戦略の延長線上の理想)ばかりが浮かぶことが増えていきます。本来は奥方向に取り戻したい何かがあったとしても、それは押し殺されているので、見えていない。「ありたい」を口にしても、そこに奥方向の像が出てこない構造の中に閉じてしまう。
二つの「ありたい」を見分ける問い
自分が今どっちの「ありたい」を語っているか、を見分けるための手がかりとして、こういう問いがあります。
- その「ありたい」を実現したら、もっと頑張る必要が出てくる感じか/なくなる感じか
- その「ありたい」は、誰かに見せたいか/見せなくていいか
- その「ありたい」を諦めても、自分でいられる感じか/いられない感じか
- 子供の頃、それを取り上げられた感覚があるか/大人になってから欲しくなったか
頑張りが減る・見せなくていい・諦めても自分でいられる・取り上げられた感覚がある、なら奥方向に近い。逆なら上方向に近い。
ただし、二つは混ざっていることが多くあります。「もっと自由でありたい」が、上方向(選択肢を増やしたい)でもあり、奥方向(何かに従わなくていい状態を取り戻したい)でもある、というふうに。混ざっていること自体は問題ではなく、混ざっていることに気づかないまま語ってしまうことが、自己理解の解像度が上がらない理由になります。問いはそれを仕分けるための道具です。
上方向は水平的成長、奥方向は垂直的成長
上方向の「ありたい」が間違っていて、奥方向が正しい、という話ではありません。人生のフェーズによって、必要な方向は変わります。
上方向の「ありたい」は、今いる発達段階の中で戦略の精度を上げ、スキルを増やし、健全度を上げる方向の成長を駆動します。水平的成長です。社会で機能していくための基礎として大事な方向。
奥方向の「ありたい」は、戦略を緩めて押し殺してきた本来性を取り戻す方向の成長を駆動します。垂直的成長です。発達段階そのものが上がる方向で、別の質のエネルギーを要する。
問題は、「どちらに向かうか」を本人が選べていないこと。両方が混ざった「ありたい」を抱えたまま、向かう方向が定まらないと、エネルギーが散ってしまいます。本当は奥方向に向かうべきフェーズなのに、上方向の理想化に縛られて、戦略を強化することばかりに時間を使ってしまう、ということも起きます。
境目を探さない、方向を見る
「ありたい自分/実際の自分」の二項で考えていると、その境目を探したくなります。どこからが本当の私で、どこからが作った私か。どこからが現実で、どこからが理想か。
でも、二項で考えている限り、境目は見つかりません。「実際」も「ありたい」も、それぞれが複数の層を含んでいる言葉だから。二項に圧縮されている時点で、境目は構造的に見えない場所にあります。
境目を探すのではなく、自分が今どの層について語っているかを見る。これが、自己理解の解像度を一段上げる入り口になります。
四つの自分(上方向の理想/演じている自分/ほっとくと戻る自分/奥方向の本来性)を別々に見れるようになると、それぞれの位置関係が見えてきます。上方向と奥方向、どちらの「ありたい」を持っているか。実際の自分のどの層にエネルギーを使っているか。それが見えると、診断の結果も、自問の答えも、人生の節目の選択も、別の解像度で扱えるようになります。
気づくこと自体は、時間がかかる作業です。一度の内省で「自分はこうだった」と決まる類のものではない。二方向を別々に持てるという構えを得て、自分の「ありたい」を口にするたびに「いまのは上方向だったな」「いまのは奥方向だったかも」と見直す。それを繰り返していくうちに、ゆっくりと自分の現在地と向かう方向が見えてきます。
そして、見えるようになった先で、「いまは上方向に向かう時期」「いまは奥方向に向かう時期」を、自分で選べるようになる。複眼道場が言うエニアグラム学習の到達点(パターンを使うか/使わないかを、自分で選べるようになること)と、地続きの場所です。